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[1278] 真実の歴史が語られなくなるとき Name:タク NEW! Date:2012/05/17(木) 05:49 
幣原内閣で、松本委員会が中心になって憲法を改憲しよう、いや明治憲法のままでいいのだ、と議論をしているとき、GHQには、諸外国から「天皇の戦争責任をどうしても放っておくことはできない」という声が突きつけられていました。

そのつもりはまったくないマッカッサーも、さすがに「そんな意見は聞かん」とひとことで抑えてしまうわけにはいきません。もっともアメリカ国務省ではまだ、やはり天皇の戦争責任を追求すべきではないかという意見と、いや天皇は別人格であるという。

なにより戦争を止めるときにどれほど天皇の力が大きかったか、絞首刑にするなんて事になると日本国民は黙っていないだろうという意見とがあって揉めている最中で、マッカッサーは、なんとか天皇を法廷に引き出さないようにする手段はないかと考えていました。

そんなある時、マッカッサーがつぶやくように、待医のエグバーグ中佐に次のようなことを言いました。「天皇の戦争責任を免れさせるためには、日本人の言う天皇は神である、つまり現人神であるという信仰を、天皇自らが否定すれば、連合国も歓迎し、その戦争責任を追及する声もいくつかやわらぐのではないか」

これをエグバーグ中佐が、同僚や民間情報教育局(CIE)のハロルド・ヘンダーソン中佐に話しました。するとヘンダーソン中佐は「いいアイディアかもしれない、日本側でこれについて考えてもらえれば」と、友人でもある学習院大学の英文教授レジナルド・ブライスさんに意向を伝えました。

つまり、天皇が自らの神格否定を詔書で発表できないだろうか。GHQもそれを期待している、というように話したのです。ブライスさんは、その経緯を学習院の山梨勝之進院長―覚えていますか。ロンドン軍縮条約で艦隊派と条約派がもめた時の条約派の旗頭ともいえる元海軍次官です。

のちに艦隊派が天下を取ったために早めに海軍を予備役となり、戦後は学習院の院長を務めていました―に話しました。それからはトントンと話が具体化していき、アメリカがまず原案を作りました。この英文があまりうまくなかったので、英語練達の幣原首相が手を入れ、さらにそれを翻訳する際に山梨さんから体裁を整えて詔勅が出来上がりました。

ただし、これがいかにもひどい日本語なのです。アメリカ人が書いた、関係代名詞をいくつも使った文章をそのまま訳したものだから、何が何だかわからない日本語になった典型的な例なのです。肝心要の箇所を読み上げてみます。

「咲となんじら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とよりて生ぜるものにあらず。天皇をもつてあきつみかみとし、且日本国民をもつて他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず」

いっぺん読んだだけでは、何を言っているのだかさっぱりわかりませんが、要するに、天皇陛下は神ではない、日本民族が世界に冠たる優秀民族であり世界を支配する資格をもっているというのも嘘である、ということです。

昭和天皇自身は、山梨さん幣原さん、側近の石渡荘太郎宮内大臣らがもってきたものについては承知したものの、これに前文として、明治天皇が制定した「五箇条のご誓文」をくっつけてほしいと強く希望し、結局そうなりました。

だから人間宣言には、なんのためだかよくわからない「五箇条のご誓文」がいきなり出てくるのです。GHQも「何だこれは?」と思ったでしょうが、近代日本の精神を記したものと説明して納得させたようです。

こうして昭和20年12月31日、閣議決定を経て英文訳の詔書がGHQにもたらされたのですが、折り返しその日、GHQからある指名が届きました。それは、今後教育おいて、日本の歴史、地理、終身を教えてはいけない、これらの三課目を廃止せよという命令です。

父の話によりますと1月1日に天皇人間宣言の詔勅が発表されて新聞に載ったのは、気になりませんでしたが、同時に、GHQの指令により終身と日本歴史と地理の三課目をただちに廃止するという記事がどーんと出たとき、「え!?では日本人はこの先、歴史というものを教えてもらえないのか。」

「自分の国の歴史を全否定されて、それを教わらないまま学校を卒業する生徒が出てくるのか」とびっくりして真実の歴史を語らねばならないと石原莞爾将軍の下に馳せ参じた覚えがありました。現実に以降、この三課目は教えられなくなるのです。


[1277] 私がフェイスブックを選んだ理由 Name:タク Date:2012/05/14(月) 18:20 
私はミクシィに「タク」というハンドルネームで2つのホームページを開設しています。どちらもお友達は1000人なのでこれ以上、日記を読んでもらうことは不可能です。一般にも公開すれば良いじゃないという意見もお聞きしますが、嫌がらせもあるのです。

また、日記を毎日書いていると3年ぐらいで容量が限界に達しますので書けなくなります。お金を払えばなんとかなるのですが、友達数の上限が1000人というものがまたネックになってきます。

上限1000人というのは、ビジネスや会を運営している者が活用しようと思うと、少ないと思ってしまう数ですが、フェイスブックでは友達数の上限が5000人なので、小規模ビジネスや会の運営なら何とかなりそうだという印象をあたえてくれます。

それに加えて「ファンページ」というのは、どうやら上限がないようで、海外の事例を見るに、1000万人規模で、人を集めているファンページも存在していたことは、私の心をとらえるのに十分な数字でした。

ファンページとは、元来は著名人や企業など、有名な人やお店などの「ファン」を集め、交流するためのビジネスやアカウントが発祥のようです。個人のページと機能的にはそんなに変わるものでもなく、企業がビジネスでフェイスブックを使うならば、ファンページだけ運営してもよいとされています。

「ファン」という言葉にとらわれずに、同じテーマに興味を持つ人が集まるコミュニティという視点でファンページをとらえたほうがよいかもしれません。私のソーシャルメディア必勝法では、専門性と人間性を分けて情報発信していくという考えかたがあります。

人間性を伝えていく分には、友達の上限5000人は十分な数字です。そして、人間制限のないのが「ファンページ」です。私はファンページの仕組みを理解したと同時に、「ファンページを専門分野ごとにつくって、情報を発信していけばいいじゃん」と考えたのです。

その辺りでは、ミクシィよりも「ビジネス」「人脈」が広がると思うのです。しかし日本では、まだまだフェイスブックをやっている人が少ないので、やれば人が集まりそうなテーマが、まだまだ手付かずで残っています。

同じSNSであるミクシィを参考にして、10万人以上を集めることに成功しているコミュニティをさっそく調査しました。その中のいくつかは、今でも順調に人が増え続けています。将来的には数万人規模のコミュニティに化ける可能性も秘めています。

ファンページは、一定のテーマに興味がある人が集まってくるでしょう。私が本当にやりたいというか、おすすめするのは、直接ものを売るということではありません。ファンページはあくまでも情報発信や人との交流の場として、成長させていくものだと思います。


[1276] 今の政治に一言 Name:タク Date:2012/05/14(月) 18:19 
消費税の議論、何とおろかな状況になっているのであろうか。消費税は日本国民の生活に直結する大きな問題です。家族に公人がいて野田総理から応援を頂き政治に携わるひとりとして、無力感を感じるとともに、情けない気持ちになります。

今日に至るまで財政赤字を積み上げてきたのは、理由があるにしても、自民党政権下のことであります。その財政赤字を何とかしようということで、現政権が消費税の増税までやろうとしているのです。本来自民党は、積極的に消費税をあげようとしていました。

年金制度は、政権が変わるごとに制度が毎年のように変わるようでは、我々の将来設計など立てようがありません。本来ならば、政権が変わっても安定した制度になるように、与党も野党もなく協力しながら年金制度などの社会保障制度を確定してゆくべきです。

北欧諸国では、そういう努力によって安定した社会保障制度が確立されています。現政権が提案している税と社会保障の一体改革の中味は問題が多いし、段取りも悪すぎます。肝心の社会保障改革が先送りになっており、マニフェストどおり実行されていないのです。

また、税の改革も弱者が苦しむ消費税に偏っており、大切なことが疎かになっています。さらに、国会議員や公務員の身を切る改革も不明瞭です。また、国際社会からは日本の政治は財政赤字問題を解決する能力がない、ということを印象付けています。

日本国債に対する信用がなくなるようなことになったら、ツケを払わなければならなくなるのは国民なのです。日本の政治はまさに正念場です。ところが、現実の政治の現場では、党利党略によってこの重大問題が大きく引きずられています。

人の揚げ足ばかり取って政治を停滞させているだけでは日本の将来を見据えた真剣な議論が展開されているとは、とても思えません。戦前の歴史は、貴重な教訓を我々に教えています。明治という時代を牽引してきた力量ある政治家たちが亡くなっていきます。

その後に訪れたのは、大正デモクラシーのかけ声の下、二大政党の時代でありました。政友会と民政党が政権交代を繰り返し、1920年代の後半には、7年間で6人の総理が交代しました。時代は、世界大恐慌が起こり、中国をめぐる国際情勢が激動する、大変な時代でありました。

そんなとき、かつての二大政党は足の引っ張り合いを繰り返し、次第に国民の信を失っていきました。政党の体たらくは、維新を唱える軍への期待へと導き、5・15事件と日本は転落していきました。

二大政党というのは、果てしない足の引っ張り合いになるというのが、歴史の教訓のようであります。我々は、マスコミなどに踊らされて検察が立証できない一人の政治家をいつまで続けるのであろうか。ここを何としても克服していかねばならない。

激しい論争を国会で繰り広げるのは当然のこととしても、一線を引いた節度あるやり取りというものを心がけていかねばなりません。ここは与党と野党で協力して安定した制度を作り上げるとか、ものごとが進む一定のルール作りをしていかねばならないでしょう。

揚げ足取りの二大政党を、見るに耐える、正々堂々と日本の政治を変えていかなければなりません。微力ではありますが国民の一人として力を尽くしていきたいと思っております。まずは小さな地域の努力ではありますが、助け合いの輪を大きくして未来の子どもを守るため除染作業に力を入れていく所存であります。


[1275] 病をかかえて生きる Name:タク Date:2012/05/12(土) 07:42 
鬱病が激増しています。本格的な鬱病とまではいかずとも、プチ抑鬱状態を入れれば、実際には驚くほどの数字になるでしょう。また、少し前騒がれたメタボリック・シンドロームにしても、標準とされる数字が国際的に見ても低目に設定されているから、血圧なども含めて、完全健康体といえる幸運な人はどく少数に違いありません。

私自身を含めて、例外なく年齢を重ねれば身体に問題を抱えています。老化現象、とひとことで片づけられてしまうが、老いも、立派な病気です。いまは百歳以上の高齢者が4万人を超える時代となりました。この数字は、今後ますます劇的に増大していくでしょう。

要するに国民のなかで、何らかの病気をかかえつつ生きる人々が大半を占めるようになっていくのです。60歳を過ぎた男性では、前立腺の肥大などは当たり前の現象でしょう。そもそも目も、歯も、耳も、骨も、筋肉も、50年あたりが耐用期限なのでしょうか。

少子高齢化は、すなわち病人大国への道と言っていい。数字や統計などでなく、実感するのは、日々の暮らしのなかで、このところ高齢者割引きの標示をあちこちで見かけるからです。映画館やDVDの貸出しなどでも、高齢者サービスが当たり前になっています。

老人を除外して市場が成り立たなくなってきたのでしょう。少し前、目が真っ赤になっていたので目の現状を調べてもらいに、眼科を訪ねたことがあります。午前中のかなり早い時間だったのですが、診察を受けるために並んでいる老人の行列にショックを受けました。

日本国にはこんなに沢山の人たちが目を患っているのか。さすが眼鏡をかけている人間が一番多いとギネスブックにのるだけのことがあると、思ったものです。長い時間待ちながら、思わずため息がついた。この国で、まったく病院や薬局のお世話にならずに暮らしている大人が、どれだけいるのだろうか。

サプリメントを含めて、様々な健康食品を私たちは使用しています。大病に出会わなくても、耳鼻科や歯科のお世話にならなかった人は、幸運に恵まれた少数者に過ぎないでしょう。癌と聞いてショックを受ける時代が、少しずつ遠のいていく実感があります。

私たちはほとんどが癌で死にます。そして癌と近代医学の闘いがずっと続けられながら、現実はその明確な原因と治療法さえ、いまだに見当たらないままなのです。病気というものは、実に辛いものです。本人の辛さは言うまでもなく、家族や周囲の人々も辛いです。
病気の苦しみは、実際のところ病んでいる本人にしかわからないだろう。


当人の辛さは、他人の想像力では理解できないはずです。天国とか、浄土とか、極楽とか、いろいろ呼びかたは違うが、もし本当にそのようなものがあるとすれば、まず病気がない世界、病の苦しみから解放される場所、といってもいいような気がします。

貧乏と病気、その二つだけでもなくなれば、それが天国だ、と考える人もいるでしょう。四苦、というのは、リアルな発想です。生、病、老、死、この四つが根本で、その後に孤独とか愛憎とかいう苦しみがあります。

今の日本は病人だらけだ、というのが数字を超えた実感です。そして今後、放射能問題と高齢者社会へ移っていくとともに、病気に悩む人々の数は劇的に増えていくでしょう。視点を変えれば、とか、発想をチェンジすれば、とか、よくいわれます。たしかにプラス思考で、世の中の明るい面だけを見て生きていけば、良いことが沢山あるでしょう。

今年も桜が散ったあと、若葉青葉が光り輝く風景が見られた。スポーツの祭典を見て、心が躍ることもある。世の中というものは、古代から現代にいたるまで、明るい面と暗い面が常に同居してきたはずです。戦争の時代にも、プラス思考はあった。人はどんな苦しみのなかでも、希望を失わずに生きることが大事だろう。それはわかる。

しかし、一見、豊かに見える私たちのこの国にも、見方によっては深い暗い闇がある。人間は120歳くらいまでは生きることができるという。医学、栄養学、公衆衛生などの発達とともに、人は長く生きる事が可能になってきた。定年を70歳に、という声も聞こえる。

だが、50歳を過ぎての長生きは、相当に問題があるような感じがしないでもない。長寿が目出たいのは、それが恵まれた少数者だからではないのか。まわりが百歳以上の老人ばかりになった社会を想像してみると、なんとなく恐ろしい。

人間はいずれみずから世を去るときを選択しなければならないのではないか。それを自分で決め、周囲にも理解されて、おだやかに別れを告げる習慣が定着する時代を想像すると、なんとなく憂鬱な気もしないではないのです。


[1274] オリオン座の1等星が爆発する Name:タク Date:2012/05/12(土) 07:12 
冬の夜空に赤く輝くオリオン座の1等星がベテルギウスである。近い将来に、超新星爆発を起こすと言われ注目を集めています。超新星爆発は400年に1度しか見られないという。日本では平安時代の夜でも3ヶ月間は空が明るかったという記録が残っている。

夜空が突然、明るくなる天体ショーです。ベテルギウスは太陽の20倍の質量を持つ恒星です。直径は太陽の1千倍もあり、肉眼でも見えるほど非常に大きく、赤く輝いています。赤色超巨星と呼ばれ年老いた星です。恒星は核融合反応で輝いており、燃料の水素が燃え尽きると一生を終えます。

質量が大きい星ほど明るく輝くので燃料の消費が早く、寿命は短い。太陽は約100億年の寿命の半分が過ぎたところで、ベテルギウスの寿命は約1千万年で、いつ爆発してもおかしくない終末期だという。

地球と同じ銀河系にあり、距離は地球から約640光年。超新星爆発の直前には、素粒子ニュートリノが放出されます。これをキャッチして史上初めて爆発の事前検知を目指すのが、岐阜県飛騨市神岡町にある東京大宇宙線研究所のニュートリノ観測施設スーパーカミオカンデです。

ニュートリノを検出すると、アメリカにある超新星早期警報システム(SNEWS)に直ちに通報。イタリアや南極にある観測施設も参加しており、早ければ30分で超新星爆発かどうかを判定し、各国の天文機関に一斉連絡する段取りです。

爆発の約33時間前にニュートリノが放出されるという。東京大数物連携宇宙研究機構の野本憲一特任教授らの解析では、最初に表面が100万度の高温になり、X線を放つ。肉眼で見える可視光が出てくるのは1時間後で、1万度で青色に輝くという。

星は膨らみ始め、2時間後に太陽の次に明るい恒星シリウスと並ぶ明るさとなり、3時間後には半月の明るさに到達。面積当たりでは半月の1千倍、満月の100倍のギラギラ度だ。この明るさが3カ月ほど続く。オリオン座は冬の星座なので夏に爆発すると日中しか見られないが、昼間でも十分に分かる明るさという。

色は次第に暖色系へと変わり、3カ月後はオレンジ色から黄色に。その後は温度が下がるにつれて暗くなっていき、450日後には金星と同じマイナス4等星。肉眼で見える限界の6等星になるのは4年後です。


[1273] 死にざま Name:タク Date:2012/05/10(木) 18:31 
ホスピスという場で約2500名の患者さんを看取った医者が自分の経験を通して、「人は生きてきたように死んでいく」と思ったという。不平不満を言いながら生きてきた人は不平不満を言いながら死んでいく。周りに感謝して生きてきた人はスタッフに感謝しながら死んでいく。これまでの生き方が、末期に濃縮する形で現われると言うのです。

よき死を死すためには、よき生を生きる必要がある。「人は生きてきたように死んでいく」という言葉は事故死や災害死には当てはまらない。2011年3月11日の東日本の地震と津波による死者は1万5000人を超えた。人々は「死に行く過程」を経験せずに亡くなった。

「別れのことば」をいう時間もないままに…。事故死や災害死はいわば例外的な死です。大多数の人は「死へのプロセス」を経て死を迎える。日本人の死因の第一位は癌である。年間約34万人が、癌で亡くなる。その人たちは、「人は生きてきたように死んでいく」のだと。

「人は死を背負って生きている」とも思う。ホスピスで「定年後、夫婦揃ってゆっくりと温泉へでも行きたい、と思っていた矢先に夫が癌で倒れました」と、ある中年のご婦人が言われた。「子どもたちが皆独立して、夫婦揃ってゆっくり温泉へでも行きたい、と思っていた矢先に、妻が癌で倒れました」と、ある中年の男性が言われた。

これらの現象に先生は「矢先症候群」という名前を付けています。生の延長上に死があると思っていたのに、実は死を背負って生きていたことが分かるわけです。生と死は一枚の紙のようなものだと思う。生が紙の表だとすると、紙の裏には死が裏打ちされている。

風によって紙が簡単に裏返るように、死が簡単にやって来ることがあります。今回の震災で亡くなられた方々は、まさに死を背負って生きておられたのです。人が生きてきた「生きざま」が「死にざま」に凝縮されるからでしょう。

そして「死にざま」の凝縮が「最期のことば」なのです。最期に家族に「ありがとう」と言え、家族から「ありがとう」と言ってもらえて最期を迎えられれば、それは「よき死」と言えるでしょう。私の父の最期の言葉も「ありがとう」だった。

緩和病棟の患者さんの平均在院日数は、約一ヶ月だといいます。その間に患者さんは人生の総決算をする。それに家族と医者が関わる。人生の総決算に参画させられます。家族は患者や医者から多くのことを教えられる。

人が生きること、死ぬことに関する教科書を読むようなものです。緩和ケアの対象は患者と家族であると言われています。医者やスタッフはチームを組んで患者、家族をケアするのですが、そのケアのプロセスで家族が、患者や医者から教えられることが実に多い。その意味で、私が医者やスタッフそして死に行く父親から教えていただいたことは人生のとても深い経験となりました。


[1272] イスラム原理主義はなぜ暴力に Name:タク Date:2012/05/09(水) 18:18 
西欧文明を取り入れた近代文化路線とイスラム主義による改革路線―この2つの路線に決定的な変化をもたらしたのは、20世紀初頭のトルコ革命でした。1923年のローザンヌ条約によって成立したトルコ共和国は、伝統的なイスラムの教育制度でした。

マドラサの廃止、政教分離の教育制度導入、宗教法廷の廃止、さらには女性のヴェール着用禁止など、徹底的な世俗化政策を進めました。エジプトでも、当時の知識層は世俗化による近代化に傾いていました。

しかし、こうした動きに危機感を覚える層の中から、「反西洋=イスラムの原点に回帰せよ」という思想が登場し、1928年には、ハサン・アル・バンナーによって、のちの原理主義団体の母体となる組織「ムスリム同胞団」が結成されました。

「ムスリム同胞団」の運動は、当初、教育や福祉の活動を主体としていましたが、組織が大きくなるにつれ、中から政治闘争に走るものも現われ、1948年には組織の一部のメンバーが首相を暗殺してしまった為、バンナーも秘密警察によって暗殺されてしまいます。

第二次世界大戦期の混乱を経て、エジプトにひとりの英雄が現われます。1952年に王政を打破し、1956年に大統領に就任したナセルです。ナセルは、当時、英国が権益を握っていたスエズ運河を国有化し、第二次中東戦争で政治的勝利を勝ち取ります。

アラブ民族主義を標榜して、1958年にはシリアとの間でアラブ連合共和国を結成します。ナセルの思想は、イスラム原理主義とは一線を画した世俗民主主義でした。「宗教といえども国家に服従すべき」と説きます。

ナセルはイスラムに基づく国家運営を求める「ムスリム同胞団」と対立して同団を非合法化。地下に潜った活動家のひとりが、1945年にナセル狙撃を企てたことから、同団に対して徹底的な弾圧・虐待を加えます。

一時は協力関係にもあったイスラム原理主義と世俗民主主義ですが、この弾圧をきっかけに、原理主義側の世俗主義に対する反感が一気に高まりました。そんな中に登場したのが、「原理主義の父」と呼ばれるサイド・クトゥブです。

クトゥブは、西洋近代文明ばかりでなく、宗教弾圧に走るイスラム教徒の世俗民主主義にも「ジャーヒリー(イスラムの教えから離れた無明社会)」が紛れ込んでいるとして、それらとの「ジハード(聖戦)」は神への義務であると主張しました。

クトゥブはやがて、ナセルによって処刑されてしまいますが、その思想は、のちのイスラム原理主義過激派やオサマ・ビンラディンらに大きな影響を与えたのでした。


[1271] 領土問題の弱み Name:タク Date:2012/05/08(火) 18:25 
国の領土とは、その国家の統治権が及ぶ空間を指すわけですが、それが陸地であれば領土といい、海であれば領海といいます。さらに空であれば領空という用いられ方がされるのが一般的です。近代日本の歴史をみるとわかりますが、日本は憲法などで特別に我が国の領土がどこまでかなといった記述はしていません。

理由として考えられるのは、軍事主導体制でその領土が拡大していくのであったから、あえてそのような文言を入れておくとむしろ国策が限定されてしまうとの不満があったからでしょう。逆に現在の憲法では、領土的野心がないことを明確にするために条文化していないとも思えます。

その反面、本来日本の領土であるにもかかわらず、その統治権が及んでいない地域もあります。そのような状況にあって、私たちは自国の領土をどのように理解し、統治権が及んでいない領土をどう返還させて、私たちの国の統治権主張を確立していくかが重要な柱となります。一体にというべきだが、日本はこの点では未だその主張が少々弱めです。

その弱みを克服してこそ、初めて私たちは正当に領土についての態度がとれるのではないかと思うのです。領土について、明治維新後の日本政府は、あえて明確な姿勢を打ち出していません。幕藩体制においては国内にかかえる各藩が、それぞれに自らの領土である地理的空間を正確に把握していたために、新政府が行った版籍奉還によって、日本という国家の領土は大体決まっていたのです。

それゆえに、近代日本草創期の明治新政府は領土問題に強い発言を行ってはいません。それをもって領土的野心がないとは断言できないが、当初は領土というより、自分たちの新政府を侮辱する、あるいは軽視する隣国政権に対して強い口調の抗議を行なったり、ときに軍事力を発動しているケースがあります。

例えば明治6年に一気に盛りあがった「征韓論」などは領土問題というよりむしろ心理的な戦争を含めての日本側の対応でした。まず私たちはそのことを正確に知っておく必要があるでしょう。当初この征韓論は、政治家などの怒りを天皇側近などが受け止めて、ひとつの勢力に拡大していった節がありました。

明治維新のあと日本は韓国と修好を図ろうとするのですが、韓国側は門を閉ざして日本を受けいれない。その態度に激高した人々が、「韓国を討つべし」と征韓論を主張するようになったのです。この先頭に立ったのが西郷隆盛や後藤象二郎、板垣退助、江藤新平らです。

これに対して大隈重信らがそれに反対したが、この間の動きを見ると、日本側の態度が無礼と受け止めたときはまず感情が高まって国論が決まるとの幣があります。この決定の時に、岩倉具視や大久保利通、伊藤博文らは欧米視察に出かけていて、帰国後にこの決定を覆すための御前会議を開いている。つまりは大久保の主張する征韓論慎重論が通っている。

この間のやりとりを見ていると、ひとつに当時の新政府の方針が士族を中心にした政権であり、海外進出によって国論の統一を図ろうとしていたことがわかります。もうひとつは、この段階では韓国に領土的野心はなかったのは間違いないのですが、この征韓論の心理は明治期に社会の底流に流れていて、やがて明治13年の併合条約にゆきついたと見ることができます。


[1270] ソーシャルメディア Name:タク Date:2012/05/07(月) 18:48 
日本には日本のソーシャルメディア、ネットビジネスの歴史があって、私がホームページをアップした頃は1998年でその頃はホームページなど作っている方はあまり見かけませんでしたので、その為、いまだに検索すると上位のページに現れるようです。

その頃は、インターポット・E−名刺・フレンドファンダー・リリパット・リブリ・カフェスタなど様々なものをやっており、人気サークル日本一に私が主催する「change the world」が一位になった事もありました。

近いところだと、2009年にアメブロ、2010年にはツイッターがブレイクしました。もっと以前にさかのぼると、2004年以前には、ライブドアブログや楽天ブログが流行り、現在日本最大のSNSであるミクシィが2004年に誕生し、本格的にブレイクしたのは、2005年のことでした。

そして、2011年ブレイクしたのが、フェイスブックです。「ここ数年間のインターネットの歴史はフェイスブックのためにあった」と言っている人もいるぐらいに、大きな可能性を秘めており、全世界で5億人以上を魅了しているSNSですので、きっと日本でも人気はどんどん増えていくでしょう。

日本では、2004年ぐらいからのブログブームによって、個人が気軽に情報発信をできるようになりました。それまで、企業と個人の間にあった情報格差の壁が崩れ去り、インターネットを使えば、誰でも最新の情報、特に利用者の生の声まで探せるようになったので、ビジネスが大きく変化していったのです。

私が情報発信を始めたのは、ホームページの掲示板からでした。今では3万人以上の方が書き込みされています。続いて、FF、メルマガ、ミクシィと利用していきました。当時のメルマガ必勝法は読者を増やして、相互紹介するというものでした。

懸賞サービスに申し込むことでメルマガ読者を万単位で購入し、メルマガを主体とした情報発信からビジネスを行う人が多く存在していたのです。私は「助け合いの輪change the world」とミクシィで、招待状を送るなどして、マイミクと呼ばれる友達を常に2000人まで増やして、交流を深めるということをやっていきました。

石原莞爾平和思想研究会やchange the worldの情報を発信し、ミクシィでパーソナルな情報を開示して、日記読者との距離を縮めるという役割分担を行っていました。ただ、宣伝と情報提供を両立させることは難しく、常に新規日記読者を集めないと、回らなくなっていくという不安を常に感じていたのです。

情報提供した後の返信をしなければならないと感じた私は、何度か日記に返信を試みていたのですが、反対意見もあり、何度かアラシに遭い消耗して続かない事を感じてお恥ずかしい話ですが、断念してメールでやり取りしている次第で御座います。


[1269] 藤本敏夫さんと加藤登紀子さん Name:タク Date:2012/05/07(月) 18:47 
石原莞爾平和思想研究会の同志であった藤本敏夫さんは、全学連の委員長時代、学生運動関連で実刑判決を受けて獄中で歌手の加藤登紀子さんと結婚しました。有機農法実践家、大地を守る会初代会長、鴨川自然王国・理事長を務めていました。

一緒にお酒を呑み語り合っていたのですが、農林水産大臣に建白書を送った後、58歳の若さで旅立たれてしまいました。加藤登紀子さんとは、何度かお会いしたことがありますが、なにかの折に挨拶した記憶がありますが、きちんと話をしたことはなかった。

しかし、藤本さんからはお話を聞いたことがありました。加藤さんは、幼いころにハルピンで終戦を迎え、外地から引揚げてきた。歌手では加藤さんは「赤い風船」でレコード大賞新人賞を受賞しています。

また、1965年にはシャンソンコンクールで優勝しています。加藤さんはソ連を訪れている。横浜―ナホトカ航路でナホトカ、鉄道でハバロフスク、そこからアエロフロートでモスクワへと、コースまで同じだったらしい。

加藤さんが書いた歌の一つに、「時には昔の話を」というのがある。そのなかに、「嵐のように毎日が燃えていた息が切れるまで走ったそうだね」というフレーズがでてくる。年代こそ違いますが「そうだなあ」と私もひそかにうなずく気持ちがあります。

だが、声にだしてそれを言うことに、なぜかためらいを感じ続けてきた。しかし、最近少し考えかたが変わってきたような気もする。「昔の話」ばかりをするわけにはいかない。だが、「時には」なのです。ときには昔の話もするべきだと思うようになってきたのです。

石原莞爾平和思想研究会には戦争体験した方が多々います。会報誌に戦争の時代の話や引揚げの話、戦後のこの国の話などを投稿していただきたいものです。1960年代の一冊の新書があります。情況出版から出た情況新書「登紀子1968を語る」という新刊です。

1968年という時代をめぐる加藤登紀子の回想と、対談二つを収録したものです。対談の一つは、現役の学生との対話、そしてもう一つは「上野千鶴子との対談」です。私はやはり上野さんとの対談がことにおもしろかった。

このなかの加藤さんの言葉に、「日本的なるもの」というのがでてきます。なにしろデビューのとき、演歌の作曲家のところへバルバランのレコードを持参して、「こんな曲を書いてください」と頼んだというのだから愉快です。

幼いころからロシア民謡を耳にして育ったという加藤さんが、やがて「日本的なるもの」に気づくのは当然でしょう。ロシアもアラブ、イスラム圏もラテンアメリカも、ともに、マイナーコードをメジャーとする文化圏なのだから。とりあえず刺激的な一冊だった。「時には」昔の話も大事にしなければと思わせられた一冊です。



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